「上から目線」はディソシエイトの弊害なのか?
「上から目線」ということについて考えてみました。
というのは、知識差があると、そこでは当然、相手と自分のポジションの違いに気がつくはずです。
知識差が高低差として実感されてしまうので、相手が上だという印象が発生するわけです。
ここに「知らなかったという羞恥心」と「負けた(けど負けたくない)という対抗心」が加わることで、相手を「上から目線」と攻撃して、自分が抱いている劣等感を解消しようとしているのではないか、と推察してみました。
この推察によれば、劣等感の原因である知識差は事実であり、それを認めているから発生する感情であるので、相手すなわち「上から目線」と言われた人の問題ではないことになります。
しかし、実際には、「上から目線」は効果的な反撃として機能しています。
私もよく言われて凹みますし(笑)。
なぜ凹むのかというと、「相手の気持ちを考えて上げられていなかったのでは?」とか「言い方に失礼があった?」という反省点を自分側で探そうとしてしまうからです。
もちろん、そうした自分側の反省点がないわけではありませんが、少なくとも「上から目線」という言葉が発せられる状況では、考えるべき問題は自分側ではなく、発した相手にある可能性が高いことを考えるべきでしょう。
では、そんな「上から目線」って、どんなことなのかを改めて考えてみます。
私が考えた「上から目線」は、相手の目の前で不用意にディソシエイトしてしまうことで発生する相手の不快感に原因がある印象ではないかと思います。
つまり、相手のことを離している途中で、それまで自分の視点での意見だったものが、あるタイミングで第三者的視点での意見に替わっていると、それを相手がすぐには察知できず、混乱してしまうことによって引き起こされる感情に由来するものではないか、と。
もちろん、アソシエイトからディソシエイトに変えて発言する際には、「一般的に考えてみると……」とか「別の視点では……」といっか枕詞を挟んで、相手に伝える配慮が必要になるでしょう。
しかし、アソシエイトとディソシエイトは同時性がなく、切り替えも難しいと言われているようなので、発言者がきちんと意識して使い分けできないケースが多いというわけです。
その結果、いきなり話がディソシエイトすると、「上から目線」という印象をもたれてしまうわけですね。
なぜ無意識に(勝手に)アソシエイトからディソシエイトへ切り替わってしまうかというと、説明をしている最中に、相手がアソシエイトな視点では解決できないから。
ほかの解決策を探す過程で、ディソシエイトへ飛んでしまうのですね。
でも、説明に納得できれば、相手が不快感を抱くのは少ないはず。
なのに「上から目線」という不快な感情が発生するのは、いきなり話の視点が変わって、当事者感が薄れることを相手が察知、それを不安(不快)に感じることが原因なのではないか、と。
発言側が「上から目線」と思われないようにする解決策を考えるとすれば、ディソシエイトをコントロール(ガマン)するしかありません。
しかし、そうなるとアイデアを制限することになるし、なによりも無意識にアソシエイトとディソシエイトに切り替えをしているので、そのコントロールに気を配るのでは会話に支障が出てしまうでしょう。
ということは、「上から目線」であることを考えるのではなく、そう受け取った相手の(劣等感が発生しているという)心理状況を把握して、それを踏まえた対応・態度によってフォローすべきなのではないかと考えます。
つまり、「上から」と言われても気にせず、そういった人が「下にいることを気にしているんだ」ということに気づいてあげて、下に降りずに「上から」言ってあげる、ということが重要ですね。
だって、気が付かされて下に引き下ろされちゃったら、その人を上に上げる手伝いが出来なくなっちゃいますから。。。
アソシエイトとディソシエイトについては以下のリンク先を参照ください。
NLP用語集:アソシエイトとデソシエイト|日本NLP協会
https://www.nlpjapan.co.jp/000047.html