生き延びるための情報を切り捨てる風潮は小林麻央さんの死を超えられるのだろうか
タイトルが吊り気味だったので、しばらく寝かせておいたのですが、改めて読んでみると、自分を客観視しつつ状況をしっかりと描写して良い記事。
記事で指摘されているのが、がん治療にどれだけのお金が必要なのかということ。
書店に並ぶ闘病記の類いにこの視点が欠落しているのは、もちろん単純にシミュレーションできないからですが。
そして、収入の補填も人それぞれ。ポケットをいくつもっているかという、前提条件の違いも、どれだけの治療を可能にするかを左右します。
乳がん宣告時29歳の彼女は、治療費を稼ぐために懸命に働いたそうです。
がん保険には未加入。この保険の勧誘は40歳を前にしたあたりに盛んになるのが一般的だったでしょうか。
そうでなくても働き盛りの30歳手前では、保険の見直しは(結婚・出産でもないかぎり)しないでしょうから、備えが悪いとばかりは言えません。
また、仕事に没頭することで、がんへの恐怖から遠ざかることができたうえに、社会から承認されているという満足感も得られたという部分は、「患者は隔離」という一般論へ一石を投じる例となるでしょう。
この影響かどうかは定かではありませんが、手術前の抗がん剤治療の時点で腫瘍が消失。仕事を辞めて生活の心配をしながら治療し続けていたらそうなっていたかどうか……。もちろん個人差もあることなので、因果関係は(この例だけでは)立証できないでしょうね。
ただ、この結果を受けて治療が変更され、それにより治療費も増加することに。
このあたりから、治療を続けるに際して、家族や周囲といった、メンタルなサポートの重要性が増すことに触れています。
しかし、大事な理解者であるべき彼氏とは(患者特有の情緒不安から)ケンカが増え、共感してもらえることを期待して出掛けた患者会では不幸自慢に疲弊するという始末。
この患者会での顛末を「劣等感プロレスとマウンティング」と表現したのは、言い得て妙だと思いました。
そしていちばん大切なことは、こうした実体験がそれまでテレビや闘病記などで見聞きしたものとまったく違っていたということ。
彼氏や患者会に活路を見いだせなかった彼女が向かったのは、なんと2ちゃんねる。
匿名の書き込みからそれなりの情報を得るだけでなく、感情の発露の場を得たことは有益だったようです。
そして、自分の体験のブログ公開。
セックス事情を大きく取り扱っていたせいか、このブログ記事に書籍化の話が舞い込みます。
ところが、進行途中で彼女が直面したのは、「生き残った人の闘病記は売れない」という出版社側の意見。
マスコミががん闘病記に飛びつくのは、それが進行性という希な症状で、亡くなるという劇的な結末があるからと断じています。
ここでこの記事のタイトルの“小林麻央さん”に行き着くわけです。
圧倒的多数の、治療費の工面に苦労し、少しでも効果のある治療に挑戦し、そして命を延ばすことができた人たちを「売り物にならない」と切り捨てる報道は、こうした“闘っている人たち”にとって百害あって一利なしであるという意見に、私も同意します。
確かに、日本人の嗜好として、「どう死んでいったのか」に興味をもつ傾向があることは否めないでしょう。死生観も欧米とは異なることが知られています。
しかし、どう考えても「どう死んでいったのか」より「どう生き延びたのか」のほうが、情報としての価値は高いはず。
価値の高い情報を「売れない」という理由で選べないマスコミの感覚。
「売れない」のではなく、有益な情報を「売らなければならない」という使命感をもつことこそが、マスを相手に情報を扱うものの大切な感覚なのではないか、と思うのですが。。。